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History

シルバーアローの時代

フォーリングスで象徴される4つのブランドにも、戦後パートナーとして選ばれたNSUにも、それぞれ誇るべきモータースポーツの伝統があります。そしてその歴史は、第1次世界大戦前まで遡ることができます。

2つの大戦に挟まれた時代、自動車レースは、大衆をもっとも熱狂させるアトラクションのひとつになっていました。キツネ狩りからラリーまで、様々なタイプのクラブイベントも観衆を集めており、ましてトップクラスの自動車レースともなると、大変な規模の群衆がつめかけるようになっていました。モータースポーツでの成功が、販売に好影響を及ぼすのは、紛れのない事実となっており、大手自動車メーカーはそれを前提に、戦略を練るようになっていました。


1932年にザクセン地方の4つの自動車メーカーが合併して誕生したアウトウニオンにとって、まず必要なのは、新しい社名を一般に浸透させることです。自動車レースはそのための恰好の手段として考えられました。訴求したい技術水準、目標とするプレステージ性を考えると、当然挑戦すべきはトップクラスのレース、つまりはグランプリです。ヴァンダラーとフェルディナント ポルシェのあいだですでに締結されていた契約が、ここで大きな価値を生むことになりました。ポルシェの名前は、会社の経営陣にも、比類のない好成績を期待させる魔力があったのです。

01 特別な発明の才が求められる新局面
1932年秋に、1934年以降適用される規則が公開されたことで、グランプリレースへの挑戦は新しい局面を迎えました。750kgという重量制限が設定されたことで、エンジン大型化の技術トレンドは終わりを告げ、代わって、特別な発明の才が求められることになったのです。ポルシェの手を借りゼロからのスタートを図ろうとしていたアウトウニオンにとっては、それは願ってもない状況でした。

02 人々を驚かせたエンジンレイアウト
ポルシェの設計でもっとも人々を驚かせたのは、リヤにエンジンを搭載したレイアウトでした。今日一般に「ミッドシップエンジン」と呼ばれるこのレイアウトは、現代的なレーシングカーでは基本中の基本とされる設計です。コンセプト自体は完全に新しいというものではありませんでしたが、それでもポルシェの設計はとても斬新に感じられ、視覚的にも人々を驚かせました。このレイアウトによりプロペラシャフトが不必要となり、そのぶんドライバーの着座位置を下げることが可能になりました。結果として、車両のエアロダイナミクスが改善され、重心も下げることができたのです。いままでにないハンドリング特性を備えたマシンを操るのに、ドライバーに超人的な技量が求められたのは、また別の問題でした(理論的に有利になるはずのトラクションについては、当時のタイヤの能力から、プラスの効果は限定的でした)。

03 重量削減に絶大な効果を発揮する設計
エンジンレイアウト以外で注目されたのが、ポルシェお得意のトーションバーを用いたフロントサスペンションと、750kgという重量制限のなかで最大限のエンジン搭載を可能にした軽量設計のボディです。ポルシェが開発した16気筒エンジンは、最終バージョンでは排気量が6.0ℓまで拡大されていました。

04 ドイツ レーシングカーの黄金時代
1934年に始まったメルセデスとアウトウニオンの対決が、ドイツ レーシングカー黄金時代の幕開けを告げることになりました。当初アウトウニオンチームでは、ハンス シュトックが唯一にして絶対的なエースドライバーでしたが、その後イタリア人のアキーレ ヴァルツィが加わり、続いてベルント ローゼマイヤーという才気あふれる若者も、チームに見いだされて加わることになります。

05 ボクサーのシュメリングと人気を二分したロゼマイヤー
ローゼマイヤーは1936年に多くのレースで勝利をあげ、ヨーロッパチャンピオンのタイトルも獲得しました。当時そうした名のタイトルは存在しませんでしたが、事実上の世界チャンピオンといえます。アウトウニオンにとっても、1936年はもっとも充実したシーズンでした。レーシングドライバーとして持って生まれた鋭い感覚に加え、気ままで「血の気の多い気性」(妻となったエリー バインホルンの言葉)により、ローゼマイヤーは生きながらに伝説となっていきます。この年、ニュルブルクリンクで開催されたドイツ グランプリで、濃霧にもかかわらず視界が開けているときと変わらない速さで走って見せたことも、さらに評判を高める理由になりました。そうした資質によりローゼマイヤーは、サーキットで同僚たちをしのぐ成績をあげるようになっただけでなく、メルセデスのエースドライバーで、それまでドイツ国民のあいだで自動車レース界におけるもっとも輝かしい星とされてきたカラツィオラすら、上回る人気を獲得するようになりました。ローゼマイヤーの大衆的人気は、ボクサーのマックス シュメリング(1930年代にドイツ人として初めてヘビー級世界チャンピオンになった人物)にも引けを取らないといわれたのです。

06 タイプC:絶大なトルクを発揮した怪物マシン
この時代のアウトウニオン レーシングカーには、開発された順にアルファベットの文字が与えられていました。3番目のモデルであるタイプCは、ポルシェの基本アイデアである「絶大な低速トルク」を、かつてないレベルで実現していました。520hpというピークパワーもさることながら、2,500rpmで87.0mkgもの大トルクを発揮することができたのです。タイプCのトップスピードは340km/hが標榜されていました。(AVUS用のボディワークで。ただしアウターパーツをフルに装備しても300km/h以上が可能でした)。

07 速度記録と消えることのない記憶
この時代、速度新記録が、人々の非常な関心を集めていました。1934年にアウトウニオンは、メルセデスベンツとアルファロメオに対抗する形で速度記録に挑み、様々なクラス及びカテゴリーにおいて、少なくとも30を超える新記録を達成していました。この絶対的な値更新の挑戦を通じ、アウトウニオンの技術開発は大きく進歩しました。しかし、それが1938年1月28日の忘れられない事故につながってしまいました。

08 1938: ローゼマイヤーの死亡事故
速度記録挑戦のため準備された車両には、560bhpのエンジンが搭載されていました。計画では、これをフランクフルト‐ダルムシュタット間のアウトバーンに運び、そこでカラツィオラによる432.7km/hの記録を破る予定になっていました。1回目のトライで、記録達成は十分可能という手ごたえを得ていました。しかし2度目のトライで、クルマはモルスフォルデン近くの切通で道路を逸脱し、クルマから投げ出され木々に身体を打ち付けられたローゼマイヤーは、その場で即死しました。これほどの高速では、タイヤのグリップと空力的なリフトが致命的要素となりえます。おそらく、林を抜けた横風が、直進中のクルマの進路を乱し、コントロールを失わせたのでしょう。

タイプD:威厳に満ちたレーシングカー
この事故によりアウトウニオンチームは、新しいレギュレーションが適用された1938年シーズンのグランプリレースを、ベルント ローゼマイヤーなしで迎えなければなりませんでした。フェルディナント ポルシェからの技術的サポートも、前年で終了しています。新しい排気量3ℓのスーパーチャージャー付き12気筒エンジンの開発を主導したのは、エベラン フォン エベルホルスト(オーストリア人のエンジニアで、アウトウニオンに入社し、ポルシェが離れた後レーシング部門のトップになった人物)です。ミッドエンジンというクルマの基本レイアウトは継承されていましたが、エンジンが若干コンパクトになったことで、より望ましいプロポーションが得られていました。結果誕生したのは、非常に魅力的というだけでなく、見る人に、何か特別なことが起こりそうだと期待させる、エキゾチズムに溢れたレーシングカーでした。開発が進んだ最終型のアウトウニオン タイプDは、史上もっとも威厳に満ちたレーシングカーの1台といえるでしょう。

09 シルバーアローの時代の終わり
ローゼマイヤー亡き後、イタリア人のタツィオ ヌヴォラーリとドイツ人のハンス シュトックの2人が、アウトウニオンのエースドライバーの地位を争うことになりました。この時代のアウトウニオンチームのハイライトは、ヌヴォラーリによるモンツァとドミントンでの勝利と、シュットクによるヒルクライムでの度重なる活躍です。1939年9月3日に、ベルグラードで開催されたグランプリレースで、ヌヴォラーリが優勝を収めていますが、ちょうどその同じ日に、(2日前にポーランドに侵攻したドイツに対しイギリスとフランスが宣戦布告して)第2次世界大戦が開始されました。そのように非常に残念な形で、自動車レースの素晴らしい時代は、突然の終焉を迎えたのです。この時代に自動車技術は新たな高みを迎え、命知らずの天才たちが舞台の花形になりました。そのような中、アウトウニオンから創造性に富んだレーシングカーが、次々世に送り出されたのです。

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